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広島東洋カープ 応援ブログ

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2020 03/09

広島・赤ヘル打線「最後のピース」高橋慶彦が走りまくった、カープの1979年




 176㎝と野球選手にしては小柄だった男は、足を武器にプロの世界を生き抜く覚悟を決める。そのスマートなルックスとは裏腹に、血の滲むような努力を重ね続けた末に、ついに開花のときを迎える。発売中の『週刊現代』が特集する。

警戒されている時こそ、走る

 「俺だけじゃなしにね、福本豊(阪急)さんもそうだと思うんだけど、盗塁っていうのは、相手ベンチが『走るぞ、走るぞ』と警戒しているタイミングで決めてこそ、活きてくる。

 自分が走りやすいカウントで好き勝手に走っても、あんまり意味がない。ずっとそう思いながら走っていたな」

 還暦を過ぎてもなお若々しい顔立ちに、笑みを浮かべながら語るのは、高橋慶彦(62歳)だ。

 17年のプロ野球人生で合計477盗塁を決めた、球史でも有数のスイッチヒッターにしてリードオフマン。

 端正なマスクとスラッとしたスタイルで、後に抜群の女性ファン人気を誇る男が、その本領を発揮したのは、1979年のことだった。

 この年、序盤から走りまくった高橋は、最終的に55盗塁を記録。初の盗塁王に輝いている。22歳、入団5年目の快挙だった。

 高橋の才能を見出したのは、高橋が入団した'75年のシーズン途中から監督を務めていた古葉竹識(83歳)だ。

 広島の監督に就任した古葉は、球団創設以来万年Bクラスで「セ・リーグのお荷物」と呼ばれていたカープに勝利への執念を植え付け、監督1年目にして初のリーグ優勝に導く。

赤ヘル打線、最後のピース

 古葉カープの最大の売りは打線だった。主砲は'78年に44本を放ち、初の本塁打王に輝く山本浩二。前後を助っ人のライトル、ギャレットがかため、さらに衰え知らずの鉄人・衣笠祥雄が睨みをきかせる。

 どの打順からでもタイムリーヒットが飛び出す最強の赤ヘル打線の「最後のピース」として古葉が探し求めていたのが、1番打者だった。

 「入団1年目、古葉さんから『高橋、プロというところは、足だけでもメシが食えるんだぞ』と言われました。その一言で、俺の生き方が決まった。

 スイッチヒッターになったのも古葉さんに言われたから。信頼していたから、迷わず挑戦したけど、左で構えた瞬間にバットを振る感覚がまったくわからなくなった。

 『ここはどこ? 私は誰? 』という感じです。慣れるまでがむしゃらに素振りをするしかなかった」(高橋)

 古葉は、その才能を見込んだ高橋に対し、人一倍厳しく接した。

 '67年から、半世紀にわたり広島担当を務めた元報知新聞の記者・駒沢悟は、「鉄拳制裁」の様子をよく覚えている。

 「慶彦が試合中にミスをすると、古葉さんにベンチ裏に連れて行かれて、スパイクで蹴られていました。何か厳しい言葉をかけるんじゃなくて、ただ蹴る。

 いまじゃ立派なパワハラでしょうが、慶彦のほうも何がダメだったかをよくわかっているから、口答えせずじっと受け入れていた」

 怒られても、蹴られても、黙々と耐える。それは、高橋自身が古葉が自分にかけている期待の大きさを、ひしひしと感じ取っていたからだ。

 「俺は、最初二軍では外野手としてレギュラーを獲ったんです。でも、一軍にはレフト・水谷(実雄)さん、センター・山本さん、ライト・ライトルとバリバリの主軸が揃っていて、外野のままではとても出番がない。

 そこで、古葉さんは俺を試合に出させるため、わざわざショートに戻した。

 後で聞いたら、周りは守備がおぼつかない俺に要であるショートを守らせることに大反対したらしい。

 でも、古葉さんは俺を1番打者に育てると心に決めていたそうで、『お前の芽が出るか、俺がクビになるか、どっちかやな』と。そんなん言われたら、命を賭けて練習するしかない」(高橋)


「俺はヘタだったから」

 古葉の期待に応え、最強の先頭打者になるべく、高橋は来る日も来る日も猛練習に打ち込んだ。

 当時から、12球団でも有数の練習量をこなすと言われていた広島において、高橋の練習量は群を抜いていた。

 「キャンプ地の日南の球場でも、いつも慶彦が真っ先に来て打ち込みをしていた。全体の練習が終わると、また19時に来て黙々と打ち込んでいる。翌朝はまた8時から。

 '79年当時、新人だった達川(光男)に『慶彦くらい練習せんか』と言ったら、『あんなやったら胃から汗が出る。試合に出られないですよ』とボヤいていたのを、よく覚えています」(前出・駒沢)

 高橋はひたすらバットを振り続けた。バットを持ったまま寝床につき、無意識のうちに素振りをしていたことすらあったという。

 それでも、「しんどいと感じたことはなかった」と振り返る。

 「才能のある人って、努力が辛いんですよ。なぜなら、元からできるぶん、伸びている手応えがわかりにくいから。

 俺はヘタだったから、やればやるほど『こんなにできるようになった』という喜びを味わえた。そうやって無我夢中にやっていて、気づいたらポンと結果が出るようになった」




 もちろん、そこは昭和の野球選手。疲れていても、寝る間を惜しんで遊ぶことも忘れてはいなかった。高橋と1、2番コンビを組んだセカンドの木下富雄が言う。

 「門限破り、お酒、麻雀、オネーチャン遊び……みんな慶彦に教えたのは俺だった。『慶彦よ、世の中にこんないいモンがあるんだ。コレを摑むためにどうしたらいいかわかるか? グラウンドで活躍するしかないだろう』と。

 アイツは『キーちゃん、キーちゃん』と、ニコニコしながら後ろをついて来とったな(笑)」

 監督の期待に応えたい。上手くなりたい。たくさん稼いで、いい暮らしをしたい。
そんな思いを胸に練習を重ねた高橋は、'79年、開幕から走りに走った。

 「慶彦の走塁はアグレッシブでね、『このピッチャー、牽制、下手だな』と思ったら、人の倍くらいリードを取る。ベンチから見ていると『バカか、おまえは! 』と思うくらいで、相手をおちょくっている感じにしか見えない。

 でも、それはかなり戦略的にやっていた。ピッチャーの目を引き、集中力を削いで、後ろを打つバッターを楽にさせようとしていたんです」(前出・木下)


新記録と日本シリーズ

 その脚力と並んで、この年、もうひとつ高橋が野球ファンを魅了したのが、連続安打記録の達成だった。

 6月初旬から毎試合ヒットを打ち続けた高橋は、気づけば'71年に長池徳士(阪急)が作ったプロ野球記録32試合に並んでいた。

 そして7月31日、達成すれば新記録となる33試合目の先発マウンドにいたのは、巨人のエース新浦壽夫だった。

 新浦はこの前年、15勝を挙げてチームの勝ち頭となり、脂が乗り切っていた。

 「あの日、慶彦が打てば新記録ということは、もちろん知っていました。『やるなら早くやっちまえ』くらいに思っていましたよ。

 なにしろ、慶彦が打席に入るたびに球場は大騒ぎだし、広島の選手たちが、『なんとか慶彦にもう一打席回そう』と、一丸となってかかってくるのが本当に手強かった。投げるべきところに投げて打たれたらしかたがないなと思いつつ、放りました」(新浦)

 そうして新浦が投げたボールを、高橋のバットは見事に弾き返し、打球はレフト前に落ちた。40年以上が経ったいまも破られない記録が打ち立てられた瞬間だった―。

 こうした高橋の活躍もあり、カープは'79年のシーズン、2位の大洋に6ゲーム差をつけ、2度目のリーグ優勝を果たす。

感覚が狂い始めた瞬間

 続く日本シリーズでは、名将・西本幸雄率いる近鉄と激突。この年、シーズン12勝を挙げ、近鉄先発陣の一翼を担っていた村田辰美が回想する。

 「シリーズ前のミーティングでは、やはり高橋を警戒していました。打率も高いけれど、とにかくあの足がやっかいだった。後ろには、どの打順にもしぶとい打者が並んでいますから。

 西本監督はペナントレース中、『福本には絶対にフォアボールを与えてはいけない』と口を酸っぱくして言っていた。

 『好きなコースのちょっと低めに隙があるから、そこに投げてゴロに打ち取って塁には出すな』と。高橋も同じようにして抑えようと考えていました」

 かつて阪急を率い、福本の足の頼もしさを誰よりも知っていた西本だからこそ、高橋への警戒心は人一倍だったのだ。

 そうして幕を開けたシリーズ、大阪球場で行われた1、2戦は5-2、4-0と近鉄の快勝だった。近鉄の先発の井本隆、鈴木啓示の前に、広島打線は沈黙した。

 舞台を広島に移した3戦目、近鉄の先発は前出の村田だった。
高橋は、絶対に塁に出してはいけない。村田は、そう強く意識していた。

 しかし、村田の直球を振り抜いた高橋の打球は、ライト線にポトリと落ち、ヒットになった。

 「あそこから、僕の中で感覚が狂い始めました。抑えられれば自分の流れに乗っていけるはずなんだけど、いきなりつまずいてしまった。

 結局、初回は0に抑えたんだけど、リズムが乱れたままマウンドに上がった2回に、水谷さんに本塁打を打たれてしまった」(村田)

 この試合、ついに初勝利を挙げた広島は一気に勢いづき、その後2連勝。勝負は最終戦にもつれ込んだ。

「本当のプロ」のチーム

 大阪球場で行われた第7戦、先攻の広島は高橋がヒットで出塁すると、2番衣笠、4番山本の安打で早々と先制、その後は点を取りあい、4-3で9回裏を迎えた。

 マウンドには江夏豊。このイニングこそ、故・山際淳司がスポーツノンフィクション『江夏の21球』に書いた名場面だ。

 ノーアウト満塁のピンチから、江夏はいかにして無失点で切り抜けるか。山際はそれをスリリングに描いたが、実際この場面でショートを守っていたとき、高橋は気が気ではなかったという。

 「実は、俺はリーグ優勝を決めた試合で2つエラーをして江夏さんにドヤされていたんです。あの場面では『今度は絶対こっちに飛んで来ないでくれ』と強く念じていた。飛んで来たら、これはもう江夏さんが悪いと(笑)」

 高橋の祈りが届いたのか、江夏は三振、スクイズ阻止、三振と連続でアウトを奪い、ゲームセット。ナインは歓喜に沸いた。

 このシリーズ、全試合でヒットを打った高橋の打率は堂々の・444。見事、MVPに輝く。副賞だったマツダの赤いスポーツカーのボンネットに腰掛け、高橋は満面の笑みを浮かべていた。

 「振り返ると、あの頃の広島は『本当のプロ』のチームだった。ピッチャーもバッターもチームが勝つために自分の仕事に徹していた。だから俺も全力で塁に出て、全力で駆け回った。

 怪我をして1週間に一度、膝から血と水を抜いていたけど、それでも野球が楽しくて仕方なかった。カープというチームに拾ってもらえて、古葉さんという人に出会えて、心から感謝しています」(高橋)

 誰よりも泥臭く、誰よりも颯爽と。22歳のリードオフマンはダイヤモンドを鮮やかに駆け抜けた。

 (文中敬称略)

 発売中の『週刊現代』ではこのほかにも『病院に行ってはいけない』『このまま1年、中国との往来がなくなったら……』『「野村克也」家の遺産相続に学ぶ』などを特集している。

 「週刊現代」2020年3月14日号より

htf***** | 27分前
そうです、慶彦は試合終盤にポロリとするでも試合には勝っていたなあ良い時代でした。
ほんと選手もみんな、江夏を筆頭にプロに徹している選手が集団となり相手に向かっていた。
カープは、三連覇したけどあの時代は日本一に連続してなっているあの時代のカープのほうが人を惹きつけるメンバーが揃っていたし、強かったと思います。
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f_s***** | 20分前
古き良き赤ヘル旋風の時代。
とっても、懐かしく感じました。
今は今で、盛り上がっているけど、何か当日
とは違う。スマホなんてない時代。
それでも、広島市民は皆、日本シリーズに
熱狂した。本当にカープは強くていい時
代だった気がする。
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par***** | 32分前
この頃の野球がいちばん面白かったなぁ
プロとしてやることはやる遊びも超一流、
今みたいにちょっと平手打ちすれば
やれハラスメントだの暴力だの、、、
時代の流れとは言え面白さ半減だもんね。
珍プレー好プレー特集の大乱闘の場面も
ないしね、、、
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mak***** | 13分前
子供の頃、選手名鑑をよく見てました。今ほどウェートが重視されない時代で、だいたいどの選手も体重は身長マイナス100~110くらい。そんな中にあって慶彦さんの176cmで体重84kgという数値に驚いたのを覚えてます。
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iwser | 25分前
当時は選手の応援歌
コージ、衣笠、慶彦くらいだったかな
ランナーが出てコンバットマーチ
内野席にも応援団がいて・・・
点が入ればお祝いの紙吹雪
宮島さんの歌は
勝った試合の試合終了後のみ

懐かしい
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ヤス | 31分前
慶彦無くして、カープの初日本一は語れない。
慶彦さんのためにも、もう一度日本一を。
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書き込みコメントは読まねーよ | 1分前
山本浩二さん、衣笠さん、江夏さんほか、強面パンチパーマ軍団の中で、女優の叶和貴子さんと噂にもなった高橋慶彦さんは異色のスターだったな。

バカボンのハジメ君がいなければ・・・

木下富さんも渋い脇役として、いい仕事しとった。
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jin***** | 42分前
79年から、ファンになりました。
今でも、好きだし戻ってくれたら
嬉しいです・・
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tos***** | 20分前
佐々木の打球が三村のグラブにあっていたのを審判が見逃した説もある
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k17 | 47分前
ヨシヒコはカープ黄金期の象徴ですね。欲を出して大きいのを狙わなければ、2000安打も余裕に打てた。

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