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2019 06/08

広島・第1回 挫折から始まった新井さんのプロ人生 まさかの開幕一軍も喜べなかった理由

ドラフト6位で広島に入団した新井氏。1年目からプロのレベルを痛感していた(写真上段、右から3人目)

僕のプロ生活は挫折から始まった。入団1年目の1999年2月。当時のカープは初の試みとして沖縄、宮崎・日南、広島・大野の3カ所で一・二軍の混成キャンプを張った。僕らルーキーは沖縄組に入り、本隊とは離れて別メニューで調整した。そこで目を奪われたのは、主力選手のフリー打撃だ。スイングがケタ外れに速く、打球はボンボン飛んでいく。中でも、天性の飛距離を持つ金本知憲さん、江藤智さんはすごかった。打球音も全く違う。圧倒された。僕自身、130キロ台のボールがとてつもなく速く感じた。いや、何をするにしてもスピードが違う。ショックだった。





「無理だ。プロはレベルが違う。これはもう2~3年でクビだろう……」

 自分は、プロの世界に入ってはいけなかったんじゃないか。正直、そう思った。

「でも、自分に負けたくない。頑張ってうまくなりたい」

 そう考える自分もいた。焦りを感じる中でケガは起きた。
 8日の練習中に左アキレス腱を痛め、10日には広島へ強制送還された。いや、厳密に言うと、痛みは自主トレ期間中からあった。
 あれは1月の寒い日。父の知人に不幸があり、通夜への参列後、寺の外で待機している時に患部にジンジンする痛みを覚えた。その数日後にキャンプイン。痛いと言えず、我慢してメニューをこなしていたら、我慢の限界を超えてしまった感じだ。

「情けない…」

 自分自身に腹が立った。同時に「これはヤバいことになった」という恐怖心もこみ上げてきた。その対象は、当時のヘッドコーチで、駒澤大学の大先輩でもある大下剛史さんだ。鬼軍曹と呼ばれた人。それはもう怖かった。

 プロのスピードに慣れたい、何とか彼我の差を埋めたい、離脱したくない──。
 痛みをこらえて練習したのは、そんな思いがあったからだ。それだけじゃない。子供っぽいようだが、大下さんに怒られる、殴られるという怖さもあった。
 ただ、その年、沖縄キャンプは達川晃豊(光男)監督が率いており、大下さんは宮崎の日南キャンプ担当。顔を合わせる機会がなく、鉄拳をもらわずに済んだのは助かった。
 一軍投手コーチの大野豊さんに呼ばれ、諭されたのは、安堵していた時だ。

「新井、オマエ、痛いらしいじゃないか」

「はい。でも、大丈夫です」

「大丈夫なんて言っている場合じゃない。もし大きなケガにつながったら、取り返しがつかないことになるぞ。だから、ここは我慢して広島へ帰れ」

「いや、でも、帰れないです……」

「でも、じゃない。先のことを考えて、ここはいったん帰れ」

 大野さんとは、そんなやり取りをした。何度か首を横に振ったのは、自分だけが取り残されてしまう不安があったからだ。それでも最終的には「わかりました」と返事をした。大野さんの気遣いがありがたかった。

まさかの開幕一軍
 日本三景の宮島の対岸に位置する、廿日市市(当時は佐伯郡大野町)の大野寮。二軍の若手選手らが生活し、練習に明け暮れる施設だ。沖縄から強制送還された僕は、そこで先が見えない不安を抱えながら、ひたすらリハビリに励んだ。

 あれは、オープン戦たけなわの3月17日。球団のマネジャーから突然、電話がかかってきた。

「明日から一軍に合流するように」

 予期せぬ切り出しに僕は驚いた。

「えっ? リハビリしかやっていないし、何も練習していないですよ」

「それでもいい。大下さんが来いと言っているから、すぐに準備しろ」

 翌18日。取るものも取り敢えず、僕は長崎でのダイエー(現ソフトバンク)戦に合流した。五番・指名打者だった町田公二郎さんの代走で途中出場。そのままDHに入ったものの、打席は回ってこなかった。そこからオープン戦に帯同し、22日のオリックス戦で初めてスタメンで使われた。七番・サード。3打数無安打だった。

 終盤に差し掛かった26日の阪神戦では2本の安打をマークしたが、トータルでは散々な成績に終わった。8試合に出場し、18打数3安打の打率.167。ホームランはおろか、打点も挙げていない。

 それでも開幕を一軍で迎えた。喜べなかった。大げさに言えば、冷ややかな周囲の視線が痛かった。

「何でアイツが一軍なんや」

 そんな声が聞こえるような気がした。それはそうだ。当時の僕は技術もなく、ただ体が大きいだけ。キャンプですぐに離脱したにもかかわらず一軍に呼ばれ、オープン戦でも結果を残していない。二軍降格が当然なのに、あろうことか開幕一軍に入った。

 大学の先輩の大下さんがヘッドコーチでなければ、あり得なかった抜てき。チーム全員が、それをわかっている。
 居づらかった。針のむしろの上に座らされているような感覚。「新井はひいきされている」と思われるのが苦痛だった。

 大下さん自身も「ひいきしている」と思われたくなかったのだろう。チャンスを何度も与えてくれた代わりに、僕にはことのほか厳しく当たった。鉄拳は当たり前。ただ、その厳しさは、僕が周囲から白い目で見られないように、という親心からだったようだ。後日「敢えてそうしたんよ。周りを納得させるために」と人づてに聞いた。当時はわからなかったけれど、今となれば理解できる。

 デビュー戦は1999年4月3日、中日との開幕2戦目だった。2点を追う5回表に投手の代打に指名され、その年にMVPを獲得する左腕の野口茂樹さんと対戦。センターフライに終わった。

 オープン戦で打てない選手が、公式戦でいきなり打てないのは自明の理だ。以来、5試合で6打席に立ったが、快音はいっこうに響かない。周囲の目は一段と冷ややかさを増し、僕自身も「一軍にいてはいけないんじゃないか。いっそのこと、二軍に行きたい。直訴してみようか……」と思い始めていた。

 そんな時だった。野村謙二郎さんに呼ばれたのは。開口一番、こう言われた。

「オマエ、まさか二軍に行きたいなんて思っていないだろうな?」

 まるで僕の胸の内を見透かしているような言葉。面食らいながらも正直に打ち明けた。

「実は思っています……」

 当然、烈火のごとく怒られた。

「余計なことは考えるな。そんなことを考える暇があったら、もっとがむしゃらに練習しろ。堂々と胸を張ってやれ!」

「すみません……」

 そう返事をしたものの、「そんなことを言われても……」という感覚だった。ただ、野村さんが気に掛けてくれているのは嬉しかったし、叱責されたことで「冷ややかな視線から早く解放されたい。もっと練習して、自分で結果を出すしかない」という前向きな気持ちになったのは事実だ。

(文:新井貴浩)

※本記事は書籍『ただ、ありがとう 「すべての出会いに感謝します」』(ベースボール・マガジン社)からの転載です。掲載内容は発行日(2019年4月3日)当時のものです。

・<第2回へ続く>
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