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2019 06/14

広島・第9回 新井さん、涙のFA会見の真相「金本さんと……」

涙ながらにカープへの別れを告げたFA会見。だが金本氏への思いは口にしなかった【写真は共同】

9年間在籍したカープを離れることは、それまでの人生で最大の決断だった。広島で生まれ育ち、カープに憧れ、カープで野球をやるのが夢だった。

大学時代に大した選手でもなかったのに指名されて入団した経緯を踏まえても、移籍など考えられないことだった。実際、07年のシーズン中にフリーエージェント(FA)権を取得する状況になっても、移籍するつもりはなかった。カープで優勝したいと思っていた。

 07年は前年にFA権を行使せずに残留した黒田博樹さんがメジャー移籍する可能性が高まっていた。長く低迷が続いていた上に黒田さんまでがいなくなる。カープはどうなってしまうのか……という不安があった。とても優勝を目指すどころではない。

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たった一度の嘘

どうしても優勝したい。しびれるような優勝争いをしたい。移籍を決めた大きな理由だ。でも、1番ではない。2番目だった。1番は金本知憲さんの存在だった。
 金本さんと一緒にやらせてもらったのは、入団から4年間。自然と食事に誘ってもらえるようになり、すぐに打ち解けた。気づけば、いつも背中を追いかけるようになった。

 野球観や技術論に限らず、さまざまな話を聞かせてもらった。打てない時に、いら立ちをベンチでぶつけるようなことをして、「そんな態度をするな」と叱ってくれたこともあった。長男の僕にとっては「アニキ」のような人だった。尊敬していたし、かけがえのない存在だった。

 だから、02年秋に金本さんが阪神への移籍を決めた時はショックだった。
 悩んでいるのはわかっていた。願望を込めて「残ってくれたら……」と思っていた。決断を伝えられたのは日南の秋季キャンプへ向かう朝だった。今はもう閉鎖された広島西飛行場で電話をもらった。

「出ることになったから……。オマエはしっかり頑張れよ」

 呆然とした気持ちのまま宮崎へ飛び、宿舎に着いた後は次の日からキャンプが始まるというのに朝まで酒を飲んでいたことを、今でも覚えている。それだけ大きな衝撃を受けた。気持ちが沈む中、胸に誓ったことがあった。「いつか、また一緒にやりたい」。もちろん、当時は自分がFA権を取る時のことなど頭にはなかった。ただ、もう一度同じユニフォームを着て野球をやりたいという気持ちだけは、明確に覚えた。

 時間がたっても、その時の思いをずっと胸の中に持ち続けていた。だから、07年にFA権を取得した時に「この機会を逃すと、もう金本さんと一緒にやれることはないかもしれない」と考えるようになった。

 ありがたいことにファンは残留嘆願の活動をしてくれた。たくさんの署名が書き込まれた応援旗が球場の観客席で振られた。本当にうれしかった。同時に、移籍するということは、そんな多くのファンの思いを裏切ることになる、と改めて思い知った。考えれば考えるほどわからなくなった。何周もグルグル回って、何に悩んでいるのかも分からなくなった。1カ月近く、そんな時間を過ごした。

 07年の公式戦を終えた後は日本代表に選ばれ、神戸で開催された合宿に参加した。翌年の北京五輪出場権をかけた台湾での予選に出場するためだ。昼は練習に集中し、練習後は去就について考えた。

 合宿中の夜、金本さんの自宅を訪れる機会があった。何時間も話し込み、率直に悩んでいることを伝えた。金本さんは「一緒にやろう」とは言ってくれなかった。誘われるどころか「オマエは絶対にカープを出ない。それだけの勇気と根性がない」とまで言われた。注目度の高いタイガースでプレーする大変さを知っているから、気遣ってくれたのだと思う。思い返せば、金本さんの言葉で逆に奮い立ったのかもしれない。そこまで言われるなら、逆にやってやろう、と。

 FA宣言をしたのは黒田さんが先だった。メジャー挑戦を決断だ。神戸合宿の終盤に聞いた。次は僕の番だった。五輪予選が開催される台湾へ出発する日が近づき、時間的にも最終決断を下さないといけなかった。

 最終的に決めたのは合宿最終日だった。練習後に戻った宿舎の部屋で球団本部長として慰留してくれていた鈴木清明さんに電話を入れた。携帯電話を取り出しても、ためらった。

「ボタンを押して電話をしたら、もうカープのユニフォームを着ることはできない」。最後の最後まで迷った末に決断を伝えても、気持ちが吹っ切れたわけではない。「もう後戻りはできない」とだけ思った。

11月8日に広島市内のホテルで会見した。FA権を行使しての退団の表明だ。冒頭で泣いてしまった。絶対に泣かないと決めていたのに、「これで本当にカープと別れることになる。もう二度とカープのユニフォームを着られなくなる」と思ったら、我慢できなかった。

「つらいです。カープが大好きなので、つらかったです……」

 20秒間も黙り込んだ末にやっと出た言葉だった。後には次のように理由を説明した。

「環境を変え、自分自身野球人として前に進みたかった。自らを厳しい環境に置き、どう変われるか。挑戦する気持ちが出てきました。カープのユニフォームをもう着られないのは寂しい。ファンの方には裏切る形になって本当に申し訳ないが、喜んで出ていくわけではないことを理解してほしい」

 会見の中では先述してある通り、「もう一度、金本さんと一緒に野球をやりたかったから」という1番の理由は口にしなかった。本当のことを言ったら金本さんに迷惑が掛かるのでは……と考えたからだ。

 今振り返ると、浅はかだったかもしれない。やはり、本心と違う言葉では、思いは伝わらない。子供の頃から母には「言葉を取り繕ったり、飾ったりする必要はない」と言われてきた。この時は“取り繕って”しまった。決して金本さんが誘ってくれたわけではない。「オマエには無理」と突き放されたくらいだ。“片思い”で追いかけた。そんな気持ちを率直に明かしてもよかったのでは……と今では思う。

 日常生活でも正直に言ったことでマイナスになることはあるかもしれない。でも、「正直者がバカを見る」とは思わない。「最後には正直者が勝つ」という信念がある。野球人生において正直にすべてありのままに発言してきたつもりだ。あの移籍会見が唯一の例外だったように思う。一度、偽ってしまうと上塗りをして余計に事態は悪くなる。やはり気持ちを伝える時は素直に言葉にした方がいい。この時の経験は、のちに選手会長としてさまざまな問題と向き合い、たくさんの人と話し合うときに生きたように思う。

 この会見を終えても、気持ちの整理がついたわけではなかった。後ろ髪を引かれる思いはずっと残っていた。

 幸いだったのは、すぐに台湾での五輪予選に挑まなければならなかったことだ。日の丸を付け、大きな重圧を背負う試合だ。しかも四番を任された。少なくとも予選を戦っている間は心のモヤモヤを消し、グラウンドに集中しないといけないと言い聞かせることができた。監督を務めていた星野仙一さんから「四番で行くぞ」と言われた時は、喜びではなくプレッシャーしかなかった。大一番だった韓国戦を含めて苦しい試合を何とか勝ち抜き、「日本の四番」として責任を果たせた。

 台湾から戻った12月7日にタイガースへの移籍を正式に表明。「また金本さんと一緒にやれる」という喜びはあったし、タイガースのために頑張りたいという強い決意もあった。一方で心のどこかでは「カープにはもう戻れない」という後ろめたい思いが、なかなか消えなかった。

 この時点では、再びカープのユニフォームを着る日が来ることは予想できなかった。

(文:新井貴浩)


※本記事は書籍『ただ、ありがとう 「すべての出会いに感謝します」』(ベースボール・マガジン社)からの転載です。掲載内容は発行日(2019年4月3日)当時のものです。

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