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2019 06/22

広島・投手王国・広島で生き残るために ドラフト外の清川栄治が企んだ大胆な賭け

投手王国・広島で生き残るために<br />ドラフト外の清川栄治が企んだ大胆な賭け

「とうとう勝ってしまった……」――入団5年目、通算106試合目にしてプロ初勝利を挙げた試合後、清川栄治はこう報道陣に語った。若いころは、「いつか先発に」との思いもどこかにあった。やがてその気持ちは消え、「リリーフ一筋、人がやらない記録を作るのもいいかな」と思うようになった。彼をそんな境地に導いたのは、左サイドスローという独特な投法。投手王国・広島で生き残るため、清川が見出した大胆な賭けである。

・【連載一覧】左サイドスローの美学

古葉監督の目前でついに秘策を実行

 ドラフト外とはいえ大卒、左の本格派。高校、大学共に名門校のエースである。自信を持って、入団したはずだった。ところが当時の広島カープは12球団随一の投手王国。左だけ見ても先発に大野豊、川口和久、中継ぎに山本和男、高木宜宏、抑えにレーシッチ……と充実していた。しかも、確固たる役割の与えられた12、13人で1年間シーズンを回していくため、今とは違って1、2軍の入れ替えがほとんどない。ましてや先発に割って入る隙など、皆無といっていい中でのプロ野球人生のスタートだった。

「そりゃあもちろん、プロでも先発で活躍する夢はもっていましたよ。そうしたスタミナでも負けてはいなかった。だけど、それ以上にカープの投手陣が充実していたんです。2軍の監督、コーチはまったく振り向いてもくれない。これは人がやらんようなことをやらなければ――自分しかいない“オンリーワン”にならなければ、首脳陣の目に留まることはできないな、とまず考えました」

 1年目の秋、フロリダ教育リーグからの帰国後、参加した秋季キャンプ。そこで、清川は“オンリーワン作戦”を開始した。簡単なのは、持ち球を増やすことである。しかし、首脳陣に振り向いてもらうための大きな勝負。何か大胆に変えなければいけない。「ここで勝負をかけてダメだったら、それまでよ」という覚悟である。

「そこで考えたのが、腕を下げること。実は高校2年生のとき、一度サイドスローをやったことがあったんです。ただ、2軍でサイドスローを大っぴらにやって、首脳陣に『勝手なことをするな』とか『お前はそんなんじゃあ無理だ』とか、ストップをかけられるのが怖かった。だから1年目の途中には真剣に考え始めたんですけれども、じっと雌伏のときを過ごしていました」
 秋の日南キャンプ。清川はブルペンに入ると、いつものように上から投げた。そこへ、1軍の古葉竹識監督。古葉監督が自分の後ろを通る気配がすると、急いで腕を下げ、サイドスローで投げ込んだ。それに気づいた古葉監督が足を止め、「う~ん……」と唸るように自分のピッチングを見つめている。その後、古葉監督の「左サイドの、面白いヤツがいる」というコメントが紙面に載った。作戦は、成功したのだ。そのうちブルペンで投げていても、オーバースローで投げるよりボールが低めに集まり出した。ここは低めにさえ投げれば「なんとかなるかもしれない」と思った。

「いざ試合で投げ始めると、やはり左バッターがタイミングを取りづらそうにしているのはすぐにわかりました。だから、低めを意識して投げることとタイミングの取り方で、なんとか1軍で食っていけないかなと。そんな光が、にわかに差し込んできましたね」

左打者を幻惑させた七色のカーブ

まずは1軍に上がること。そして、1軍に“自分のポジション”を作ること。初めは敗戦処理でいい。やがては対左バッターのワンポイント、あるいは試合におけるポイントで投げられるように。左には、それだけの需要がある。ましてや左サイドスローの自分にしか目指せない場所、誰しもができない仕事ができれば、これほど面白いことはない。

「1軍に定着したのは、3年目の1986年ですね。このころから、自分は中継ぎで生きていくのかなと思い始めた。この年良かったのは、津田(恒実)さんが抑えに配置転換され、僕も初めて1軍で左専用のリリーフという形になったこと。リリーフ陣全体に、厚みが出てきたんです。右は84年に最優秀防御率を獲った小林誠二さんがいて、僕と同じサイドスロー。ブルペンで一緒に肩を作っていると、右と左で鏡写しのような状態になるんですよ。それで僕、よく小林さんのタイミング、腕の使い方、足腰の位置など、マネをしていました」

 現役時代を通していえば、球種の割合はストレート4.5、カーブ4.5、シュート1。若いころは2、3イニング投げることもあったため、フォークやパームボールを投げた時期もあった。逆に晩年は、カーブ中心。左バッターに対することがほとんどで、体の近くから逃げる有効な球として多投した。

 一般的に、カーブは1本の縫い目に指をかける。しかし清川は二本の縫い目に指をかけていた。清川は手があまり大きくないし、リリーフで緊張すると、汗をかく。力を入れなければならないところで人差し指や中指が外れ、ボールがすっぽ抜けてしまってはいけない。そこで「保険」のため、二つの縫い目に指をかけた。

「指がよくかかったときは、曲がり幅が広くなるんです。ちょっとずれるとチェンジアップ的になって、それはそれでいいことがあった(笑)。スライダー的に小さく曲げる、大きく曲げる、緩く曲げる、ちょっと落とす、あるいはちょっと伸びてホップするようなイメージとか。“曲がらないカーブ”なんていうのもありましたね(笑)。サインは同じ“カーブ”でも、指先の力の入れ具合や手首の角度、腕の使い方などで、曲がり幅を調節していました」

 そういうわけで、あるスコアラーは清川のカーブを『七色のカーブ』と呼んでいた。敵からしてみれば、なんともやっかいな相手である。並み居る左バッターたちが、球の出どころが見づらい左サイドスロー・清川を苦手とした。広島時代は横浜大洋・高木豊や巨人・クロマティら。近鉄時代には、日本ハム・ウインタース、オリックス・藤井康雄ら。とはいえ、カモと苦手は「ある日を境に、逆になることもある」という。中には心理作戦(?)で、対抗してくるバッターもいた。例えば大洋・高木豊である。

「ある日の試合前、高木さんが『今日初球は何を投げるんだ?』と話しかけてきましてね。当時はまだ“相手チームの打者とは話をするな”という時代。慌てて逃げたんですが、何か空気が変わったんですかね。その試合か、次の試合でホームランを打たれて、それから何か苦手になってしまった。ウインタースは試合前、ニコニコしながらやってきて、『この腕が悪いんだ』と言って、右腕をへし折るようなポーズを取ったんです。左腕じゃなかったんだけど、その日にホームランを打たれて、吉井(理人)の勝利を消してしまいました。何かちょっとした心の動きが、作用するんでしょうね」



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左サイドスローは自分で選ぶべきもの

現役引退後は広島、オリックス、西武、社会人野球の日立製作所でコーチを歴任。若い選手たちに、自身の15年に及ぶプロ野球生活から学んだ知恵を伝授する。

「左ピッチャーに、『サイドスローにする方法もあるよ』と話したこともありますよ。広島時代の佐竹健太、オリックスの清水章夫、西武の中崎雄太、今なら藤田航生。ただ、『腕を下げてみろ』と、こちらからやらせたことは一度もない。僕から言うのは、違うと思うんです。あくまでも、行き詰った選手自身が“ここで自分はちょっと変わらなくちゃいけないな”と思う。そのときの選択肢の一つとして、彼らの頭の中に入れておいてやれればいい。実際やるかやらないかは、選手が考えることですよ。覚悟の上での挑戦でなければ、結果は出てこないと思います」

 当然、サイドスローには向き、不向きがある。「こういう方法もあるよ」と提案できるのは、腰の回転と、サイドから投げる腕の使い方が一致する選手。一般的に、腰の回転が横回転のピッチャーはその延長線上で腕を振ると、最もいい球がいくとされている。清川自身の腰の使い方は、「横から投げることのできる許容範囲内の縦回転」だった。

「体の硬い選手でもできることはできる。でも強いて言えば、ひじの使い方がうまい選手のほうがやりやすいですね。サイドのフォームを固めやすい。サイドスローのピッチャーのフォームを見ると、下半身はドンと根を下ろしたような形で、ヒジだけが出てくるでしょう。オーバースローでも同じなんですが、上からヒジを出して投げるのはそこまで難しくない。でも体の重心を下げながらヒジを出すのは、結構難しいんですよ」

 広島時代のフォーム変更当初、清川は、流れるような「1ピース」のフォームだった。年を重ね、近鉄に移ってからは、右足を上げてから下ろすまでの間と、上体をひねってテークバックに入ったところで微妙にタイミングを変えた。

「ストレートの力が落ちたから、タイミングをずらすしかなかったんですよ。僕はもともと真っすぐも140キロまでで、そこまで速くなかった。それでも空振りが取れたのは、球持ちが良かったからだと思うんです。右足を着いてから、投げるまでの時間が長い。間があるんですね。下半身を低くしたまま、下半身の粘りを利かせてスーッと移動するような動きを太極拳でやっているじゃないですか。あれと一緒で、ゆっくりした動きから最後は全力。ゼロから100、そういうイメージで投げていました。油断させておいて、“あ、来た!”みたいなね。どこか錯覚を起こさせるような感じなのかな。それが、三振を取れた要因だったと思います」

自分だけで密かに喜んだ大記録

 プロ初勝利は入団5年目、通算106試合目の登板(88年4月20日、巨人戦=東京ドーム)だった。左サイドスローとなったが故に歩んできた、中継ぎ街道。まだ「ホールド」という記録のなかった時代で勝ち負け、セーブといった表に出る記録とは無縁の野球人生だった。

 それでも中継ぎは、「天職」だと清川は言う。「やるべくしてやった仕事」の結果が、実働15年、438試合登板、364回、奪三振375、13勝10敗12セーブ、防御率2.94の成績だ。そしてもう一つ、忘れられない自分だけの大記録がここにある。

「広島時代の87年、7試合打者29人に対して“完全試合”をしたんです(アウトの内訳は三振12、内野ゴロ5、内野フライ3、外野フライ9)。中継ぎって、光が当たらないでしょう。だから、常にこんな感じの、表に出てこない記録を狙っていました。完全試合って、途中で口にすると記録が途切れがちじゃないですか。だから途中、記者にも誰にも何も言わずに、ひたすら自分だけの中で温めていた(笑)。29人目に落合(博満=中日)さんをライトフライに取って、ホッとしたわけじゃないんでしょうが、宇野(勝=中日)さんにナゴヤ球場のライトスタンドにホームランされてしまいました。36人くらいはいきたかったんですけどねえ」

 清川が現役時代にまとった、2つのユニフォーム。その胸には自身と、見える人にしか見えない、しかしまこと鮮やかなプロフェッショナルの勲章が、輝きを放っている。(文中、敬称略)

(企画構成:株式会社スリーライト)

清川栄治(きよかわ・えいじ)

1961年9月21日生まれ。京都府出身。京都商業高校から大阪商業大学を経て、83年にドラフト外で広島に入団。プロ3年目の86年に50試合に登板し、1軍に定着。当時、投手王国と言われた広島で、サイドスローから繰り出すカーブを武器に、ワンポイントリリーフとして活躍した。91年シーズン途中で、トレードで近鉄に移籍。97年には当時の日本プロ野球記録である438試合連続救援登板を記録。98年に7年ぶりに広島に復帰し、同年に現役を引退した。引退後は広島、オリックス、日立製作所でコーチを歴任し、14年に西武の1軍投手コーチに就任し、今シーズンは巡回投手コーチを務めている。

左サイドスローの美学


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