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2019 06/23

広島・背番号1の天才打者、3つの記憶

①叫び声 2005年春

オリックス戦で2ランを放つ広島の前田智徳=2005年5月15日、スカイマークスタジアム【時事通信社】

2017年のプロ野球セ・リーグは、広島カープが連覇を達成した。25年ぶりのリーグ優勝を果たした16年と同様、打線の躍動が原動力となった。若き4番打者の鈴木誠也、1番田中広輔、2番菊池涼介、3番丸佳浩の「タナキクマル」トリオ、終盤けがで離脱した鈴木に代わって4番を務めた松山竜平、シュアな打撃が光った安部友裕。中堅、若手に加えて、ベテランの新井貴浩、長距離砲のブラッド・エルドレッドも健在だった。

 その中に、西川龍馬もいる。今季2年目の左打者はセンスあふれる打撃で「天才」と呼ばれ、近い将来の定位置奪取を予感させている。

 「天才」という称号を聞いて、05~07年のカープ番記者だった筆者が思い浮かべるのは、前田智徳だ。入団2年目の1991年にリーグ優勝を経験し、その後は度重なるけがに悩まされながらもヒットを重ね、2007年に通算2000安打を達成。13年限りで現役を引退した。印象深い背番号1の天才打者、前田について、当時の取材メモと思い出から3つの記憶を振り返った。(時事ドットコム編集部 舟木隆典)

ヤクルト戦で先制本塁打を放つ広島の前田智徳=2005年4月10日、広島市民球場【時事通信社】

◇ ◇ ◇

 前田のバッティングを初めて実際に見たのは05年2月、宮崎県日南市での春季キャンプだった。その年からプロ野球の担当記者となった筆者は、美しいフォームに「これが天才打者か」と一瞬で心を奪われた。左打席でバットを構えたときのすっと伸びた背筋、ぶれない体の軸。そこから、静かな体重移動を経て、どこに力が入っているのかというしなやかな動きでバットを振り下ろすと、「パチン」という音を残して、ライナーの打球が外野に飛ぶ…。一連の動きは、いつも見とれたものだ。

 そのキャンプである日、練習が終わり、ほぼ全員が引き揚げたはずの球場で、三塁側通路に記者の人だかりが見えた。記者たちは、部屋の入り口から室内の誰かと会話していた。相手の、叫ぶような声がもれてくる。筆者も遅ればせながら後方から輪に加わると、その声の主は前田だった。

①叫び声 2005年春(続)

オールスター戦で適時打を放つ全セの前田智徳(広島)。左は全パの投手・帆足和幸(西武)=2005年7月23日、甲子園球場【時事通信社】

 「逆立ちしてでも走るんじゃ。見ておれ!」。西日が入り込む部屋で、上半身は裸、下半身には厳重なアイシングを施した姿の前田は叫んでいた。

 前田は1995年に右アキレスけんを断裂し、2000年には左アキレスけんを手術。常に両足に不安を抱えながらプレーを続けていた。04年、前田は打率3割1分2厘、21本塁打をマーク。並の打者であれば申し分のない数字だったが、そのオフの契約更改交渉で、フロントから厳しい言葉を掛けられたのだという。

 約20分間、語り続けた。足を痛めた後のある時期、DH制のあるパ・リーグの球団から誘われたが、カープに残留したことなども打ち明けていた。話が終わって記者の輪が解けると、他社のある記者が「きょうの話は永久保存だな」とつぶやいたのを覚えている。

オールスター戦で最優秀選手となり、ボードを掲げる全セの前田智徳(広島、中央)=2005年7月23日、甲子園球場【時事通信社】

開幕から、宣言通り攻守で全力プレーを見せた。左翼の守備ではダイビングキャッチを何度も試み、内野ゴロを打った後も一塁へ全力疾走した。打撃も好調を持続。このシーズン、オールスター戦にファン投票で選出され、7年ぶりに出場。最優秀選手にも選ばれた。

 このシーズン、前田は12年ぶりの全試合出場を果たした。アキレスけんの手術以降は初めてのことだった。172安打、32本塁打はともに自身シーズン最多で、打率は3割1分9厘をマーク。チームは最下位に終わったものの、個人としては充実したシーズンとなった。

 2年後の07年、通算2000安打を達成。その大台への展望が開けたのは05年だった、と後に振り返っている。「全試合出してもらって、それなりに数字も残せたし、勇気付けられましたね。『よーし』と。これはいけると思った」と語っている。



②恩師の言葉 村上孝雄さん
 広島入団1年目の前田智徳=1990年撮影【時事通信社】
 前田の通算2000安打が現実味を帯びていた2007年のシーズン前、筆者は前田をスカウトした村上孝雄さんの北九州市の自宅を訪ね、話を聞いた。村上さんは前田の他にも北別府学、津田恒美、緒方孝市ら、後にカープのレジェンドとなる原石を発掘した伝説のスカウトだ。

 熊本工高時代から好打者として知られた前田は、甲子園大会でも活躍。村上さんは、初めて見た高校2年の前田の素材にほれ込んだ。「もう飛び抜けていた。言葉で言い表しようがない。足は速い、肩はいい、バッティングはいい、顔はいい。無駄口はたたかない。野球一本に集中して、しっかりしている。ずーっと見ていて、俺が生きている間は九州で(前田以上の)バッターは出ない、と思ったね」

 当然他球団もマークする選手だったが、前田は1989年のドラフト会議でカープの4位指名を受けて入団した。4位まで他球団が指名しなかったのには、理由があった。村上さんによると、ドラフト会議の前、カープを含む各球団に文書が出回った。後輩が他校の生徒に殴られたと知った前田が、単身その学校に乗り込んで仕返しをしたという内容だった。



カープのスカウト陣からも、指名を控えるべきという声が挙がったという。しかし、村上さんは「前田は中傷を受けたけど、そういう人間じゃない。それだけ、責任感が強いということ」と押し切った。熊本工高の指導者からも、主将として伝統校を甲子園出場まで引っ張った人間性を十分に聞き取り、確信を得ていたという。

 入団後の前田は、順調に一流打者への階段を上った。前田は村上さんに、米大リーグ行きの希望を打ち明けていた。また、村上さんは、93年に2度目の巨人監督に就任した長嶋茂雄監督が前田を獲得したがっていると、人を通して聞いたこともあったという。しかし、やはり95年の右アキレスけん断裂が大きな転機となった。



②恩師の言葉 村上孝雄さん(続)
 ヤクルト戦で先制の適時二塁打を放つ広島の前田智徳=1997年9月7日、長崎【時事通信社】
 1995年5月23日、ヤクルト戦(神宮球場)で一塁への走塁中、前田は右アキレスけんを断裂。翌24日に約2時間半に及ぶ縫合手術を受け、10月に練習を再開。翌年にはドミニカでもリハビリを行った。

 村上さんは「アキレスけんを切る前に『痛いんですよ』と言いよったね」と振り返る。手術直後の病院に見舞ったときのことを、「ふさぎこんでいるかと思ったら、意外とそうでもなくて。『しょうがないから、治すように努力します』と言っていたよね」と言う。

 2000年には左アキレスけんを手術。その後は米国や群馬県館林市でも治療を受けた。甘い物と焼き肉が大好物だった食生活の改善にも取り組んだ。「一緒に食事に行ったりすると、酒を飲まないからとにかく一生懸命焼き肉を食べている。(食生活の改善は)奥さんのおかげだね。奥さんが怖くてしょうがないんだ」と笑う。



そんなけがとの長い闘いを、村上さんは見守り続けた。「けがをして、切り替えて立ち直る。その集中力は、どう言葉で表したらいいのか…。言葉がないね。けがする前は、とことん練習してメジャーに行くつもりでいた。アキレスけんを切った後は、そのまま駄目になるのではなくて、切った瞬間からもう一つ、もうワンステップ上に行く。2度目やったときも、このままでは終わるわけにはいかない、と徹底的にやった。ものすごい努力ですよ」

 前田は現役時代、人知れず村上さんへの贈り物を欠かさなかった。また、前田も村上さんからの差し入れを楽しみにしていたという。村上さんは16年1月、心不全のため79歳で亡くなった。前田の後を受けた若ゴイたちがカープに25年ぶりのリーグ優勝をもたらしたのは、その年の9月のことだった。



③感謝と回想 2007年秋
 通算2000安打を達成し、試合終了後のインタビューで感極まる広島の前田智徳=2007年9月1日、広島市民球場【時事通信社】
 2007年9月1日の中日戦(広島市民球場)の八回、前田は通算2000安打を達成した。鋭いライナーの打球が右翼へ飛び、夕闇迫る満員の球場が沸き返った光景は忘れられない。

 その数日前、市民球場のプレスルームで各社の担当記者による前田の合同インタビューが行われた。普段はなかなかざっくばらんに話せない相手。狭い部屋は記者でごった返した。苦しめられ続けてきたけがについて、こう振り返った。

 「けがをしてからはいろんなことを言われてきたし、風当たりもあったし、トラブルもありました。いろんなことがあり過ぎて、ここにいることが本当に不思議っていうか、信じられない。思ってくれる数少ない方がいるんでね。後は何もないです。何て言うんでしょうね…逃げるのは簡単だったですけど、何とかしたかったというのはある」

 野球をやめたいと思ったことはないか、との問いもあった。



「やめるとか…やめなきゃいけないだろうという感じ。(ファンやお客さんに)失礼だろう、と。普通にできたことができなくなるわけで。最初からできてなかったなら別だけど、最初は何をやるにしても自信はあったしね」

 質問は、打撃論にも及んだ。理想の打撃は、との質問にはこう返した。

 「理想の形はないですよ。けがをしてからはないですね。(けがをする前は)考えなくてもできたことが、考えないとできなくなる。バッティングでは、意識しないと反応しなくなる。その重さが致命傷ですから」



③感謝と回想 2007年秋(続)
 オリックスに勝利し、ファンとタッチする広島の前田智徳=2012年6月10日、マツダスタジアム【時事通信社】
 筆者は、このインタビューに向けてある質問を用意していた。前田は試合でも打撃練習でも、ボールの見極めにこだわる。1999年以降は、シーズン50三振以上を喫したことがない。悪球に手を出さない姿勢は数字が証明している。けがによる衰えを、選球眼を磨くことで補ったのか―。筆者の問いには、こう答えた。

 「選球眼は意識してできるものではない。集中して打席に入って、体が動くのか、止まるのか。見極めて打った記憶はない。ほとんどカンで打ってますから」

 こん身の質問も、絶妙な選球眼でいなされたのは、今となってはいい思い出だ。当時は広島新球場(現マツダスタジアム)のオープンを2年後に控えていた。新球場への思いを問われると、こう答えた。「無理だよ。2000本打ったらバイバイ。失礼やろ。俺が新球場で野球しとったら」

 そうは言いながらも、新球場では代打の切り札として圧倒的な存在感を示した。そして2013年、カープが16年ぶりにAクラス入りしたのを見届けて、24年間の現役生活を終えた。



1979、80年以来実に37年ぶりの連覇を遂げたカープは、新たな黄金時代を築きつつある。前出の村上さんは、けがからの復活を目指して黙々と練習を重ねる前田の姿が、緒方孝市や金本知憲ら同年代を刺激した、と指摘した。「前田があれだけ練習しているのに、自分がこれだけでは、と。追い付け追い越せで。あれがなければ、金本もあそこまでになっていなかったね」。若手が次々と育つ今のカープには、猛練習で困難を乗り越えた前田の姿勢が今も生きているとも言える。

 引退後、打撃技術や打者心理を分析するテレビ解説、キャスターとしての滑らかなトークと穏やかな表情の前田を目にするたび、10年前の記憶が静かによみがえってくる。カープの背番号1は、前田の引退後は空き番号となっている。いつまでもファンの記憶に残り続ける次代の背番号1は、現れるだろうか。(文中敬称略)

https://www.jiji.com/sp/v4?id=201709carpmaeda0001



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